義衍老師語録提唱7~8

◆任せる(1)

 本文
 
 任せる。「任せる」ということは、自分の方から何かをすることではないのです。
 (手を叩いて)「ポン」これが耳に任せたという状況です。「ポン」これは耳に任せているということです。音がするだけです。
 聞くとか、特別何かをするような気配はない。耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。
 六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)というこの道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。
 道具立てというのは、この身体の機能のことです。眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように・・・

 提唱
 
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
 元旦の朝、本堂での朝課の後、阿弥陀堂でのご祈祷を終えると、ちょうど朝日が見えるところまで昇ってきます。
 今年も神々しい朝日を拝み、いよいよ新年が始まりました。 
 しかしながら、新年になって何が変わったのでしょう?確かに意識の上では年が改まったということはあります。でもいつだって吸う息も吐く息も常に新鮮で、見えることも、聞こえることも真新しい生活をしているのも事実です。この身体に具わった機能(道具)は特別なことが一つもなく働いています。 
 飾り付けや行う事柄は新年のものに違いなく、国旗がはためく様子だったり、お正月の花が生けてある様子だったり、ストーブの上のヤカンにお湯が沸く音だったり、様々なものに触れて変化しながら、新しいということすらない、そんな活動をしています。
 お正月は確かに特別なことに違いないのですが、そんな特別なことの中身は、実は極々当たり前のことばかりなんですね。

◆任せる(2)

 本文
 
 眼はものが見えるように出来ている。耳は音が聞こえるように出来ている。鼻は香りが分かるように出来ている。舌味がするように出来ている。身体は感触がするように出来ている。意、つまり心はものが思えるように出来ている。
 それを全部、それ自体の働きに任せておく。自分で自分の好き嫌いで使うことをしないのです。すべてがその通りにあるだけです。それが修行の着眼点です。 
 今ある、そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか。
 自分自身というものを本当に知りたかったら、自分自身に向かう以外はない。古今東西の聖人たちが必ず歩んで来た道です。

 提唱
 
 年明けからあっという間にもう3月です。季節はすっかり春。お彼岸の月を迎えました。
 仕事柄、声を出すことが多いのですが、50歳を過ぎると、その日の調子によって、自分で思っているように声が出にくかったりと、ムラを感じるようになってきました。
 プロの歌手の方は、喉や体調の管理に随分と心を配っておられるのでしょう。年齢と共にそうしたケアはますます必要になってくることでしょう。
 もう少し若い時分、声が出にくい時、無理しても声を出そうと頑張り、苦労をした経験があります。その時は気が付かなかったのですが、知らないうちに、自分が思っているようなものと比べて、それとは違うものがそこにあると、自分が勝手に気に入らないものと思って苦労していました。
 あるとき、自分の声に自分自身が気が付きました。自分の気に入る気に入らないという思いと関係なく、必ずそのときその通りに出ている。そのことに出会って、お腹の奥の方の変な力が抜け、スッと心も体も軽くなりました。不思議なものです。事実はその通りにあるだけです。