義衍老師語録提唱5~6

◆更に向かう処なし(1)
 
 本文
 
 坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。 
それをやりますと、次第にあっても気にかからぬようになる。
 気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。
 まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。
 そういう縁を結ぶということがある。

 提唱
 
 今週は梅雨らしい天候でした。
 先日、ラジオでスメルハラスメントのことを言っていました。今やいろんなことに対して敏感になっている人が多くなっているようです。自分にとって気に入らない、不快と感じたものに対して、ハラスメント(いじめ、嫌がらせ)だと訴えることは、一体どこまでいくのでしょうか。
 考えてみれば、世の中のこと(人や物事)は自分が気に入るものの方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
 外側にあるものに対して善し悪しを言い始めたら本当にきりがない。善し悪しを言えば言うほど心は穏やかさを欠いていく。そうして対立するもの、不平や不満は自分の中に増幅されていく。そういうことが分かるから、まず事実を知るという必要がある。この身とそして周りにある事柄の正体を知る必要がある。
 だから坐禅では、今まで自分が扱ってきた善し悪しという物さしを置いて、ただそのままに過ごしてみる。そうすると、自分が今まで認識していた事柄とは違う、その正体に気がつく時節が必ずある。

◆更に向かう処なし(2)
 
 本文
 
 その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、悟る前の様子と悟って後の様子が、いっぺんにに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 祖師方は皆、そういうふうにされて来た。
 何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。目的がなければ生きがいがないのか、嫌気や、いい加減にしかしないのか、不足があるのか。
 更に自己を立てて向かう処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。赤子は堂々とこれをやってのけている。

 提唱
 
 坐禅をして今の自分を見直したり、変えていこうとする、そういう目的で来られる方がほとんどです。今の自分に満足していないからそういうふうに思うのでしょう。しかし、坐禅は今のその満足していないと思っている自分を丁寧に見てみることをするのです。
 なぜそういうことをするのかというと、満足していないと勝手に思っている今の自分の生活かも知れませんが、赤いものに向かえばその赤い色がその通り見えて、音声に触れれば大きさや方向、何の音なのかさえその通りに分かる。これはどういうことなのか。私たちは満足出来ている様子もちゃんといただいているということです。
 人は何の為に生まれて来たのでしょう。目的を持って生まれて来たという自覚のある人は一人もいません。それは後で人が付けたり思ったりしたこと。元々何も持たずに誰しもが生まれて来ました。ただ、今触れる縁のみを等しく戴いて。
 生まれて来る前の様子、人の根源は、人の欲求としての満不満を越えて、満足のいく出来映えがある。そのことに、他ならぬ自分が自分の内容に気付くこと。