義衍老師語録提唱30~31

◆雪ほど黒い(1)

 本文
 
 「世の中に雪ほど黒いものはない」
 皆さん如何ですか。耳は「それはおかしい」とは言わない。聞くのに他人の耳に用はない。生涯自分自身の耳で生活する。
 その時の様子は寸分違わない。二つも三つもの聞き方などない。それが、人が迷わないように出来ている証明である。何の不足もない。
 眼が雪に触れる時、眼はごまかされはしない。必ずその通りに映るように出来ている。 
 「雪ほど黒い」と聞いて記憶したものと、雪は白いと記憶したものとが、自分の頭の中で矛盾を起こす。

 提唱

 令和7年になりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
 今日は七草。もう早一週間が過ぎ去ろうとしています。
 さて、表題の「雪ほど黒いものはない」これは祖父が使ったことばです。一瞬「何っ」と思うことばです。雪は白いと認識していますから当然です。
 しかしながら、その白いと認識している色は本当に白なのでしょうか?白は200種類あるそうですが、簡単に白という認識で片付けてしまっています。
 私たちの眼はそうした認識を超え、そのものをその通りに見る力があります。だから白いものに触れても、白というふうに見ることはありません。 それでは白じゃないのかと言ったら、その色の通りのことがあって、その他の色に見えることはありません。
 認識で見ているのか、それとも実物を相手にしているのか。そうした違いが矛盾を起こす。
 色の方にしても、白という声を発している訳でもなく、眼にしても白と決めつけるものがありません。どちらも何も持ちものがない同士が触れあってそこにその通りのことが現れる。矛盾はありません。騙されることはありません。迷うことはありません。苦しむことはありません。
 目の前のものにもう少し丁寧に触れてもらう。今、自分自身が本当に生きているところに親しくしてみる。それが坐禅というものです。

◆雪ほど黒い(2)

 本文 

 自分の頭の中で矛盾を起こす。どう言うことだろうと探るようになる。
 触れた通りの働き、理屈も何もない。確実に文句なしの実物である。そのことに用がある。
 世の中のことを、あるがままに知ることは難しい、と人は言う。
 自分自身の生の姿を知るには、必ず今を用いる。いきなりという知り方をする。
 禅は難しい、修行は時間がなくて出来ないと、よく言われる。
 「今」「自分自身」「いきなり」何時でも何処でも場所を選ばない。決して難しいとは言わせない。

 提唱

 暖かくなったり急に寒くなったり、気温の変化に戸惑います。
 境内の河津桜がようやく膨らんできたなぁと思っていたら、先週末の暖かさで一気に満開となりました。
 越後の禅僧良寛さんが地震に遭った友人に送った手紙に
「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。
死ぬる時節には、死ぬがよく候。
是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」
というものがあります。 寒暖差の戸惑い、なかなか思うようにならないこと、どれも人が思うこと。人の内に起こること。
 身の回りの事実に少し委ねてみると、何時でも何処に居てもただその通りのことがある。それ以上でもそれ以下でもなくある。
 事実はいつでも「いきなり」触れる。人の善し悪し、都合に関係なく。 だからこそ、そこに本当に人を救う力がある。 考え方の「事実」、考え方の「いきなり」では届かない。救われない。近くして遠い。 
 そこに修行という用がある。特別なことをするのではなく、「いきなり」の事実に触れる。
 あなたは今生きているのか死んでいるのか?もしこの問いに、生きていると決めようとしたり、その問いに僅かでも戸惑うことがあるとすれば、それは考え方の世界。
 生きているとも死んでいるともなく実物で生活している、直接活動している我が身を知る。それが修行というものです。