義衍老師語録提唱29~30

◆説法(2)

 本文

 法それ自身が、法それ自身として活動しておる。大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。命をかけての大問題です。自己を忘じ切ったところにおいて、自己なくして行われる様子がある。 私が手を打てば「ポン」、どうしても、みなさん、そうならなければならんようにできあがっておるんです。
 それが本来の面目です。すでに是の如く他に行き場はないんです。そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、どうにもならない状態であったということです。

 提唱

 今年も半年が終わろうとしています。お盆の季節を迎えます。
 5月中頃、不覚にもコロナに感染しました。初コロナです。朝起きた時は何ともなかったのですが、朝のお勤めのとき肘の関節の痛みに気付きました。そのあとはあっという間に寒気で震えるようになりました。
 病院で検査の結果、コロナとの診断。約2日半ほど39度5分前後の熱が続きました。幸いに喉の痛みや咳はありませんでした。 
 久しぶりの熱と体中の痛み。辛いに違いありませんが、痛いということひとつを取り上げても、痛いという人の思いと実際の痛みは違います。痛いと口にしたり、痛いと思えば思うほどその辛さは増幅します。
 片や実際の痛みに眼を向けてみれば、痛みというその感覚は確かにあるのにそれ以上のことはない。それ以上に苦しめられることはありません。不思議なものです。
 痛みは痛み自体でちゃんと解決済み。痛み自体に問題はありません。しかし、痛いという思いは思いの中に別の思いを生みます。痛みそのもの自体とは違うものになってしまいます。
 世間でいうところの人や物事の評価は、人の思いで見ているもの。そのことが正しいとして疑いさえ持たない。その思いで扱ったものを離さない。 元々問題なかった物事に自分が思いで問題を起こし、それに自分が揺さぶれ更に思いを重ねる。静かにならないですね。

◆大安楽(1)

 本文

 庭掃きをしている時「今、何をしているのか」「誰が掃いているのか」と。分かりきっていると思われることを問われると、本当は分かっていないから、何かあるんじゃないかと念が走る。
 ありのままとか、平常心とか、今が大切とか、言葉を知り、理解しているつもりが、全く判らなくなる。
 この問いは、それぞれ皆さんに問われていることです。  只、今の動きだけがある。それを受ける人がない、自分が立たない、理屈は知っていても自分自身のこととして自問自答してみると役に立たない、全く哀れな様子である。

 提唱

 遅く動きが読めない台風10号の影響で雨が続いています。
 そんな中、車庫の雨漏りがあり、原因箇所の特定と修繕にこのところ毎日屋根に登っています。
 人が何かしている時、その内容に「私」はありません。例えばスマホを使っている時「私がスマホを使っている」ということはありません。「私」など必要ないのです。スマホの画面の内容があればそれだけでいい。それなのに「私がスマホを使っている」という認識の方が本当のように思っている。「私」という余計なものが付いてくる。
 実際に目の前のものを見て事実に学んでみれば分かることです。でもこれが中々出来ない。永いこと認識の方で見る癖が付いているから。厄介なことは認識で「事実」を見ているということ。「事実」に「事実」なんていうものは無いのに「事実」という認識で扱う。
 これではどこまで行っても認識の中。「事実」という偽物を大事にして、本物に触れることがない。 しかし、一方では私たちはいつでも認識を離れた事実で生活しています。知らないうちに「私」など相手にせず過ごしている大安楽な内容がある。自分のことは自分で確かめるほかないのです。 

 事実に 
   事実という
      声はなし

 真実に 
   真実という
    姿なし