義衍老師語録提唱27~28

◆修行の眼目(2)

 本文

 それですから古人が、歌にこういっている。「主なくして、見聞覚知する人を、生き仏とは、これをいうなり」主人公はおらんのです。「身の破れ、果てたるときの心こそ、実に万法一如なりけり」
 六根、六境の働き、一切詮索することをやめて、ただ機能と環境との関係にうち任せる。
 法性というものは、法の性質です。法といわれるものは、もともと場所も位置もあるんじゃないんです。空寂です。本当に何も存在しない。
 修行の眼目は、生まれながらのこの本来の相(すがた)に接することです。
 参ずるということは承る。自分自らがそれに承当する。自性に徹することです。徹しているものを妨げておるものが、人の心意識です。その心意識を用いることがなければ、そのものはいつも徹しておる。

 提唱
 
 水仙が一輪咲きはじめました。冬の庭を彩る花です。
 落葉樹はほぼ葉を落とし幹と枝だけの光景は寒い季節を迎えた感じがします。
 「枯木龍吟」という言葉があります。一般的には「一度衰えたものが再び勢いを取り戻す」という意味。       
 しかし、「枯木」とは人の認識、見解がすっかり無くなったことを表しています。今まで自分が自分の認識や見解で物事を見ていたが為に、自分を苦しめたり不自由にしてきた。その認識や見解が何処にもない自分自身の本来の様子に触れて、龍が天を飛び廻り吠えるが如く自由へと解き放たれたようすのこと。
 この体の機能(見える聞こえる思える等)と周りの環境(物や人や出来事)との純粋な関係に任せる。 例えば、色や形に呼び方を付けていますが、元々色や形には名前はありません。後から人が付けたもの。だから物の方からそういう声は聞こえません。とても静寂です。 でも、いつの間にかそうした色や形といった認識でものを見るようになった。それで一度、生まれながらの本来の相に触れると、自分といっても色や形といっても、皆人の認識の上で問題にしているのであって、この身も周りのものも至って空寂なんです。
 「茶碗は茶碗にあらずしてしかも茶碗に他ならず」これが分かるとハッキリするんです。

◆説法(1)

 本文

 説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。
 それですから「本性の理」というんです。「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。各自人々分上、自分の鼻で自分で呼吸しておる。 だから、どのようなことが、どのように起こってみても、決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。

 提唱

 あっという間に3月となりました。お彼岸の月を迎えました。
 日曜日の朝の坐禅会にみえている方の中、先日「皆さんは普通に頷いていますが、私はまだ頷けるところが分からない」というお話をしておられました。早く何かを得たいというのは人によくあること。
 ここでいう頷けるということは、人の話しを理解するということではないんです。自分自身のことを自分自身で味わうということなんです。   だから、分かるとか何かを得るという話しではありません。  
 その方にお話しをしたのは、自分という畑を先ずはちゃんと耕すこと。坐禅という坐るという鍬で一振り一振り耕し土を養うこと。
 考え方で堅くなった土を養い柔らかくする。例えば、あちらに人が居るとあちらの人のことだと思う。けれども、本当は皆自分の内容。あちらの人が見えるのも、あちらの人のことだと思うのも皆自分の様子。
 そんなふうに、焦らず、ゆっくり、一呼吸、一動作を丁寧に、自分自身の様子を自分自身で耕す。
 今まであちらの様子だと思っていたことが、本当に自分の様子として味わうことができる。頷くことが出来るんです。
 頭で知ろうとする人は一足飛びに収穫しようとします。本を読み知識を集めるても、それは耕すこととは違います。ちゃんと耕すことをせずして良い作物はできないものです。