◆本来空
本文
我見(がけん)をこれから離れるのではない。
我見の起こる前があって、その前が自分の真実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。 それが「道(みち」です。それが坐禅の一番大切な様子です。
提唱
紫陽花の花が綺麗な季節です。早く咲き始めたものはもう茶色がかって花の時期が終わろうとしています。
美しく咲いているものも花、枯れてきたものもまた花。甲乙を付けるのは人であって、花の咲いている様子はふたつと無い。ただその時の様子のみ。
私たちの生活も同じく、昨日もあれば今日もあるのではなく、本当に今こうしているところだけ。
それなのに自分に気に入るとか気に入らないという甲乙を起こし、気に入らなければそれを変えようとまた考えを起こす。
我見とは正に人の考え。考えの上のもの。色も形も無く触れることも出来ないもの。
美しく咲いたものがやがて枯れてゆく。それは人の考え方。
美く咲く花を前にして枯れた姿が見えるのか。枯れた花を前にその美しかった姿がそこにあるのか。そこには人の考え方が差し挟まる余地はない。
考え方の前にその事実がある。人があれこれ思ってもその事実は揺るぐことはない。誰もがそうした道の上にある。「我見」も「空」も「私」も「花」も「美しい」も「枯れる」も皆あとから付けたもの。付ける前の様子が必ずある。
そのことがあるからこそ、人は本来確かに自由であることが証明される。それを「坐禅」と言い、また「仏道」と言う。
◆修行の眼目
本文
人は知らずに生まれてきている。それが基本です。知ったから生きているんじゃないんです。知らずにいきている自分があるのです。
それが本当の人の在り方です。それは永遠の在り方です。
そういう永遠の在り方そのものに徹するということが本当に必要なんです。
徹するまでは「わたしが」という人間を認めておったんです。その苦しみを逃れる要件を見つけて、それを土台にどうにかしようとする。
これは人間的な影が残っているのです。そういうものがすっかりなくなってしまうものです。
提唱
昼間はつくつく法師が静かに鳴き、夜は虫の音が賑やかに、秋らしさを感じております。
その虫の声ひとつを取り上げても、聞こえてくることが先にある。聞こうと思う前に既にある。既に私のものとなっている。
その既にあるものに対して人があとから「聞いた」とか「聞こえた」と言ってまるであちらの虫の声のように取り扱う。 本当は知らないのでしょう?いつ聞こえたのか。聞こえたものは何処へどうなったのか。
人が取り扱えばいろいろと言い分がある。でもそれはもう既に終わったもの。影も形もないもの。 その取り扱いをどれだけしても、取り扱いはあくまで取り扱いであって、実際の虫の声のことではない。
では本物の虫の声はどこにあるのか?それは言わずと知れたこと。虫が鳴いているときだけ。自分のものとなっているときだけ。そこに修行の眼目がある。
先日、とある医大生から「このお寺に来る皆さんは、どんなふうに手を合わせているのか?」という質問があった。その子にはおばあちゃんがいるとのこと。「おばあちゃんはどんなふうに手を合わせているか聞いてごらん」と。大切な人を亡くした人とそうでない人。みな違う。「あなた自身はどんなふうに手を合わせているのか?」その時その人にしか現れないものがあるはずと。
本文
我見(がけん)をこれから離れるのではない。
我見の起こる前があって、その前が自分の真実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。 それが「道(みち」です。それが坐禅の一番大切な様子です。
提唱
紫陽花の花が綺麗な季節です。早く咲き始めたものはもう茶色がかって花の時期が終わろうとしています。
美しく咲いているものも花、枯れてきたものもまた花。甲乙を付けるのは人であって、花の咲いている様子はふたつと無い。ただその時の様子のみ。
私たちの生活も同じく、昨日もあれば今日もあるのではなく、本当に今こうしているところだけ。
それなのに自分に気に入るとか気に入らないという甲乙を起こし、気に入らなければそれを変えようとまた考えを起こす。
我見とは正に人の考え。考えの上のもの。色も形も無く触れることも出来ないもの。
美しく咲いたものがやがて枯れてゆく。それは人の考え方。
美く咲く花を前にして枯れた姿が見えるのか。枯れた花を前にその美しかった姿がそこにあるのか。そこには人の考え方が差し挟まる余地はない。
考え方の前にその事実がある。人があれこれ思ってもその事実は揺るぐことはない。誰もがそうした道の上にある。「我見」も「空」も「私」も「花」も「美しい」も「枯れる」も皆あとから付けたもの。付ける前の様子が必ずある。
そのことがあるからこそ、人は本来確かに自由であることが証明される。それを「坐禅」と言い、また「仏道」と言う。
◆修行の眼目
本文
人は知らずに生まれてきている。それが基本です。知ったから生きているんじゃないんです。知らずにいきている自分があるのです。
それが本当の人の在り方です。それは永遠の在り方です。
そういう永遠の在り方そのものに徹するということが本当に必要なんです。
徹するまでは「わたしが」という人間を認めておったんです。その苦しみを逃れる要件を見つけて、それを土台にどうにかしようとする。
これは人間的な影が残っているのです。そういうものがすっかりなくなってしまうものです。
提唱
昼間はつくつく法師が静かに鳴き、夜は虫の音が賑やかに、秋らしさを感じております。
その虫の声ひとつを取り上げても、聞こえてくることが先にある。聞こうと思う前に既にある。既に私のものとなっている。
その既にあるものに対して人があとから「聞いた」とか「聞こえた」と言ってまるであちらの虫の声のように取り扱う。 本当は知らないのでしょう?いつ聞こえたのか。聞こえたものは何処へどうなったのか。
人が取り扱えばいろいろと言い分がある。でもそれはもう既に終わったもの。影も形もないもの。 その取り扱いをどれだけしても、取り扱いはあくまで取り扱いであって、実際の虫の声のことではない。
では本物の虫の声はどこにあるのか?それは言わずと知れたこと。虫が鳴いているときだけ。自分のものとなっているときだけ。そこに修行の眼目がある。
先日、とある医大生から「このお寺に来る皆さんは、どんなふうに手を合わせているのか?」という質問があった。その子にはおばあちゃんがいるとのこと。「おばあちゃんはどんなふうに手を合わせているか聞いてごらん」と。大切な人を亡くした人とそうでない人。みな違う。「あなた自身はどんなふうに手を合わせているのか?」その時その人にしか現れないものがあるはずと。

