義衍老師語録提唱23~24

◆解脱(1)

 本文 
 
 解脱をする上で、自分が物心ついた時点で、この身心を、「自分である」と知らずに思い込んだということ、これが一番のガンなのです。
 その思い込みというものが、今の考えをもってしては、どうしてもけりがつかんものです。
 なぜかといいますと、認識それ自体の活動が、そのものの根底、根源を知らんのです。心自体が、自分の心自体の本性を知ることができないのです。どこまでも分別で分別を処理しようとする範囲ですから、法としての存在である自分を見ることはできないのです。そこに大きな問題があるのです。
 それで・・・ 

 提唱

 クリスマス寒波。各地で大雪に警戒とのニュース。朝一番の水の冷たさが嫌な季節です。
 「冷たい」というのはいったいどういうことなのでしょう。確かに水自体の温度のことに違いありませんが、手に触れるまでは冷たいということはありません。手に触れた瞬間冷たいと感じます。それは、一方では水のことだと思っていますが、一方では手の感覚でもあります。どちらか片方だけでは「冷たい」ということは成り立たず、お互いが触れ合った時に現れることです。
 しかし、一般的には「向こう側にある水が冷たい」そのような片側からの見方が正しいと思っている。
 ここに、自分と他を分けた思い込み「物心がつく」という迷いの根源がある。
 人の思いは不思議です。良いと思えば大切に扱い、悪いと思えば粗末に扱う。皆向こうのもののことだと思ってしまう。しかし、良いといって良くなるのか、悪いといってものが変わってしまうのか。もの自体はひとつも変わらないのに。扱っている自分でさえ、良いといって、ものが違うものに見える訳でもなく、悪いといって、ものが粗雑に見えることはない。純粋にそのものとの触れあいがあるだけ。
 自他を分けた「分別」という見方からは、元々私たちが持っている純粋な働きは中々見えてこないものです。


◆解脱(2)

 本文

 それで、本当に人の見解から一度離れてしまってみると、初めて分かるのです。
 その時の状況をチラッと話しますと、一切の人間的な見解というものを忘じ切って、自他の関係もなにもかも本当になくなってしまうということが、必ずあるものです。
 その自他の関係を忘じ切ってしまった状態においての生活が、わたくしどもの平常こうして行われておるときの状況です。ですけれども、一度、自己を忘ずるということがないと、うなずけないのです。


 提唱

 先日、根本山にある倉田園というところへ開山忌のお供えを買いに行きました。お檀家の方に戴いた苺が美味しかったことが理由ですが、そのお店の前に河津桜があり、その枝振りと花付きは他にはない立派なもので感動しました。  
 花が見られるということは不思議なもので、今年の花が在って、そして今の我が身が在って、共にそこに在って初めてそこに花が咲くということがあります。そんな当たり前のことですが、そこが心底大切なものと頷けるかどうかが重要なところです。
 一度、今知っている人とものとの関係を忘じてしまわないと見えてこないものだと言われている内容です。
 それまではやはり、こちらに自分が居て、あちらにものがあるという隔たりがあって花を見ています。私がそこを去っても花は変わらずそこに在ると思う。去年も咲いていたに違いなく、来年もまた花を付けると思っています。しかし、それは人が思っていることであって、実際に花が咲くということと違います。
 昨年まで私はその桜を知らなかった。知らないということは在るとか無いとか、ということすら無い。記憶に残っているとしても、実際に花がそこにある訳ではない。
 花と我が身、どちらもここにあって花は咲く。それは人生に於いて最も美しく咲く花となります。