義衍老師語録提唱21~22

◆色即是空 空即是色(2)

 本文 

 そんなことは人間が後からいらん名前を付けてみただけの話です。
 全てあるということは、自分の眼に映っている内容でしょう。自分の眼に映っているものを認識しているだけでしょ。
 ものと一つになった経験のある人は、しっかりと観て下さい。一つになったということが分かる時は、少なくとも残念ながら二つなんです。
 一つになったことは事実なんだけれども、一つになったということも消えてしまうんです。そこまで行かんと相手(対象)が残る。後で気付くことですから。気付いた時に初めて、一つの時には一つということもなく、見ていた自分も、ものも出てこない、全くない。問題になるようなことが全くない。


 提唱

 新型コロナも落ち着きをみせ、コロナ前の日常を取り戻しつつあります。 しかしながら、今日まで医療従事者やその他関係各位の大変なご苦労とご尽力があったからこそ現在を迎えられていることを忘れてはならないと思っています。
 その一方で人災と言えることも多かったように思います。様々な情報や噂、そうしたものに右往左往し随分と不安な思いに苦しめられました。
 しかし、よく見ればウイルスは感染こそしますが、ウイルス自身は少しも騒いでいません。騒いでいるのはいつでも私たち人間。
 ここに私たちが学ぶべきことがあるのだと思います。余計な考え方を起こせば起こすほど、騒げば騒ぐほど、本来安心して暮らして行ける場所を持っていながら、そこには目が向かなくなる。いつでも目の前のものといっしょに過ごしているにもかかわらず、そうしたことは上の空。
 人は時に考え方を大事にします。でも実際に生きている内容は考え方で生きている訳ではありません。事実、考え方の前に既に生きていることがある。
 ものと一つになるということは、まさにこの身が生活している真っ只中のこと。 
 「当処は常に湛然なり」この身のある処は、いつでも人を困らせるようなことがなく静かなんです。


◆心の定義

 本文

 自分で決めた心じゃ駄目なんです。自分の中で思われる働きを心だと思っていないか。それは自分がつくった心に対する定義です。
 お釈迦さまはじめ、悟りを開かれた方々が言っておられる心に対する定義というものを把握しないとズレが生じる。 
 同じ心というものを言っていても共通理解ができない。仏祖方が言われる「心」ということは、本堂に行けば行ったように、柱に向かえば向かったように、お経の声に接すれば接したように、寸分のズレも間違いもなく、必ずその通りになる。
 それを心と名付けておられる。自分を抜きにして一切は存在しない。己の全活動であって他の活動は一切ない。その全活動を心というておられる。

 提唱

 仲秋の名月を迎え朝晩は随分秋らしくなって参りました。
 季節というものは移り変わってゆくものとして私たちは捉えています。夏が過ぎて秋に至るというように。しかし、実際には移り変わってゆくその様を見たことがありません。あるのは今ある情景だけ。過ぎ去ったものもなく、どこからか来た気配もなく、只この季節のみがいつでもあります。
 私たちは繋がりとして見る癖があります。夜が過ぎて朝になったと。でも、私たちのこの身はとても正直で、夜のときには夜しかなく、朝のときには朝しかありません。前のものから移り変わったなどという持ち物は一切ありません。
 ここに、人が思っている「心」というものと、仏祖方が言っておられる「心」というものの違いがあります。人が思っている心は前後をつくり、過去、現在、未来などという流れをつくって、そのつくったものを眺めては比べて評価して右往左往しています。
 一方、仏祖方の言っておられる心というものは、うそ偽りなく正直にこの身の活動のみ。しかもその活動は眺める自分らしき人を外に置かず、いつも共にそこにある。だから、ズレることも比べるようなことが並ぶこともない。そのことがそのまま自分自身の全活動としてスッキリしている。迷う種がない。