義衍老師語録提唱19~20

◆不思量底(事実に教わる)

 本文 

 テレビの声が聞こえる。そういうことが自分のところにある。どうしたんでもないのに聞こえている。それが不思量底なんです。
 あなたの考えに何も関係ない、考え方で声があるんじゃなく、考え方を飛び越えた事実が「今」ある。その事実に教わるんです。今は自分を認め、相手を認めた上の生活。もう少し本当に勉強していただくと、相手の世界というもののない生活があることが分かってくる。
 「今」ある事実に触れてゆくことにより、相手の世界がなくなってゆく。
 五感と環境の働きは、必然に考え方を飛び越えた大きな働き方をしている。この作用は無限に活動を起こす。
 「今」のその働き、そのものに教えられておいでになると、自分のあることも何も彼もすっかりなくなって、分からんほどにすっかりものと一如になって、一如になったことも知らずに生活しておる。
 そうしたところに、図らずも縁によって、その真相が手に入るんです。

 提唱

 新年を迎え、七草そして成人の日が終わりました。時は刻々と過ぎてゆきます。カレンダーを見、時計を見、朝が来て、過ぎ去ったことを見て時を感じています。
 しかし、実際に「時」をこの目にすることはありません。時計が刻む秒針を見ることはあっても、「時」自体が見えている訳ではありません。
 「時」は自分とは別に流れているわけではありません。実際にご自分の生活に眼を向けてみて下さい。
 「今」と言っても「今」という「時」があるのではなく、その「今」の内容は、見えることや聞こえることがあるだけ。しかも、見えることや聞こえることでさえ自分とは別のものではありません。
 不思量底とは、相手の世界と自分の世界という隔たりを越えて生活している私たちの実生活のこと。
 向こうのことと認める前に既に自分といっしょになっている。いっしょになっていることすらないほどに実生活に添ってみる。
 実生活は必ず教えてくれます。人があれこれ考えを起し問題にする以前の姿を示してくれます。
 考え方を起こした後の世界を考え方で解決しようとするところに、人の大きな過ちがあることお釈迦様は確かにお示しである。2月15日はお釈迦様のご命日。合掌し礼拝する由縁である。

◆色即是空 空即是色

 本文 

 人がものを見たというてみても、物があるというてみても、変わったことがあるんじゃない。
 自分以外のところに、カレンダーがあったり、山があったり、花があったりいろいろある。
 全部よそのことのように思える。いつからそうなったのか。分別がそういうふうに見させているんです。それは分別の世界の話です。
 分別が止まると、一体感として、ただ自分の動きとしてのものなんです。
 もの、そのものながら自分の様子であり、自分の様子は、直にものの様子である。
 そういうようなことは、考えることではない。
 眼があって見えるのか、ものがあって見えるのか。

 提唱

 境内の河津桜が七分咲きくらいでしょうか。今年も綺麗に花を付けました。
 花を見るということは不思議なものです。あちら側の花のことでありながら、同時にそれは必ず今生きている自分自身の内容でもあります。
 どこからが花のことで、どこからが自分のことなのか、花と自分との境界も無く、あるのはただ花が咲いていることだけ。
 自分と他のものという分別はいつ生まれたのでしょうか。知らないうちにそのように分け隔てをするようになった。無明と言われる所以です。
 そこに花だけがあってもその姿は現れず、この身がそこに関わって初めて見えるということがあります。どちらか一方だけでは成り立たないもの。
 そういう親しい間柄であるのに、何故か向こう側のもののように扱う。何故かこちらとは別のもののように思う。
 そこに修行として一番大事なところがある。向こう側とこちら側を認めた上からの修行は間違い。それは人の思いや考え方で扱うから。考え方にいくら手を付けても、肝心の自分自身はそのまま。だから解決しない。
 花と自分と言っているのに、その親しい在り方、兎の毛ほども隔てのない在り方、そこに眼を向けてみて下さい。自分も花もそうした境も何もかも無い。大安心ということすら無いほど大安心です。