義衍老師語録提唱17~18

◆不思量底(1)

 本文 
 
 「兀兀(ごつごつ)として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ即ち坐禅の要術なり」(道元禅師 普勧坐禅儀)
 「兀兀(ごつごつ)として端坐すべし。此に於て箇の不思量底を思量す。如何が思量せん。謂く非思量、此れ即ち坐禅の要法なり」(瑩山禅師 坐禅用心記)
 道元禅師は坐禅の要術と示され、瑩山禅師は要法と示されておりますが、いずれにせよ、「坐禅をされる中で最も重要なこと」と受け止めて下さればよい。

 提唱

 曹洞宗の宗旨は「仏祖単伝の正法に遵い、只管打坐、即心是仏を承当すること」と明記してあります。
 このことが一番重要なことであるということです。しかしながら、今やご葬儀や法事などの儀式や、寺院運営にばかり力を注ぎ、大切なことをどこかに忘れてしまっている寺院が多くなりました。
 私は出家してお坊さんになったのであって、寺院運営をする為の後継ぎになったのではありません。
 確かに、お寺というところに住まわせて頂いている以上、その管理運営も放っておく訳にいきません。
 お坊さんとは何なのかというところに恒に立ち戻らなければいけないと思っています。基本を忘れて日々の生活に追われてはいけないということ。
 両禅師がここにお示し下さっていることは、最も尊重すべきこと。ただ言葉の上の言い回しではないということ。
 ご葬儀や法事もこの内容によって行われ、このことが根本にあるということです。
 お寺を護って下さるお仲間をお檀家と言い、そしてそのお檀家とそのご先祖が安心して過ごして頂く為にある共有の存在がお寺です。
 お寺は誰の為にあるのでしょう。誰のものなのでしょう。そのことにもう一度立ち戻る必要があります。


◆不思量底(2)

 本文 

 坐禅というものを正しく伝え、実践してもらっているかというと、はなはだ、おぼつかない気がします。一番大切なことは、坐禅中(日常の生活も)どのようにして過ごしているのか、そこを大事なこととして伝えてゆくかです。
 坐禅堂での作法や、姿勢、息の整え方等を学んで、一応形もでき、静かに坐って、それで終わりでしょうか。こういうところを自分のこととしてよく見て下さい。
 人の機能が機能として純粋に活動している、今ある事実が事実のまま、それに思いを起こさずにいる時の自分の在りように、きちっと目を向けて、その事実を見逃さないようにしているということが不思量底を思量するということです。そこを間違わないでいただきたい。

 提唱

 暑い暑いと言っていたのに、いつの間にか彼岸花の芽が出始め、日は随分と短くなり、虫の声が賑やかさを増している。季節の移り変わりを確かに感じる情景だ。
 季節を感じる花や音、味わいや香りは人それぞれの感じ方があるであろう。日本語の美しい表現はそんな感じ方の違いから生まれたものであろう。
 そして、そのどれもが自分自身と密接に関わっている。言い換えれば自分のこの身が無ければ感じ得ないことである。
 人の多くは、ものごとは自分の外側にあるものとして捉えている。しかし、見える、聞こえる、味わうなどどれを取り上げても必ず自分自身の内容に違いない。人の機能としての働きである。
 その働きは、この身体だけが在っても機能せず、ものごとだけが存在しても機能しない。互いに触れあって初めてひとつの働きとなる。互いに無くてはならない存在である。
 互いに無くてはならない存在ということは、互いに争うことはしない。だから赤いものは赤く見え、蝉の声は蝉の声として聞こえ、甘いものは甘く感じる。
 互いに争わない基本的な働きを生きているという。「不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり」と。道元禅師が著された普勧坐禅儀の一節である。この非思量とはまさに私たちの基本である。