義衍老師語録提唱13~14

◆迷われない

 本文 
 
 「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。それは通常迷っている、悩んでいることだ思っている。そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。「どうしようか」という時「どうしようか」ということがあるだけ。「こうしようか」という時「こうしようか」ということがあるだけです。
 いろいろその先のことを考える。迷っているんじゃなくて考え方の中にいるだけです。考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。
 これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡る為に叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。
 今の自分の在りようです。考えとしての動き、その動きに教えられればよい。動きとしての事実に教わればよい。その動きに対して考えが動き、考え方で取り扱うのが人の常。「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。

 提唱

 新型コロナウイルス感染症により自粛を余儀なくされ、今なお多大な影響を及ぼしています。 
 自粛とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」。この自粛の「自」には「みずから」と「おのずから」という読み方があります。
 「みずから」はその意志の主体(自分)があり、その主体によって進められる。主体が自らを省みて態度を改めていく。本意でなければそこに不満が生じる。
 一方、「おのずから」は「物事の成り行きや自然の道理に従って自然にそのようになる」ということ。ここには主体は要らず、その意志も要らない。それはまるで、水のように四角や丸に自然に形に添うように。水面に映った月が、波打つ時は波打つように、静かな時は静かに揺れるように。それでいてひとつも不自由はない。
 自粛とは本来「おのずからつつしむ」ということ。私たちは、いろいろ考えたり思うことがあっても、一つずつしか考えたり思うことができないように出来ている。いっぺんにいろんなことが出来ないようになっている。「おのずからつつしむ」ということが自然に実行されています。
 もう一つの今はないのように出来ています。

◆坐禅の本質
 
 本文 
 
 坐禅をするということは、どういことをするのかといいますと、一切のものを無条件で、そのまま受け入れて、なんともない人になるんです。それが坐禅の本質です。
 考え方で、あぁのこうのと言っていれば切りが無い。それじゃからそん
なものを一切問題にせず、問題にしようとする主体を離してしまうのです。
 問題にする主人公、それを離してしまうんです。そうすると、縁の如何を問わず問題にしなくなる。 
 相手の世界を問題にしなくなる。相手の世界が問題にならなくなるだけ自分自身の真相が明らかになってくる。 そうすると、只、そのことがそのこととしてあるのみであって、それが人と言われておる私たちの実体である。

 提唱

 長い梅雨、そして猛暑。ようやく最近朝晩が少し暑さが和らいできました。
 そうこうしていると今度は台風の季節。心配事は尽きません。人は大自然の前ではどうすることも出来ません。今近づいている台風の被害が最小限であることを祈るばかりです。
 確かに、被害を想定した準備をすることは私たちには出来ます。しかしそれだって安心は出来ません。
 越後の良寛和尚の句にこんなものがあります。
 
 災難に遭う時節には
 災難に遭うがよく候
 死ぬる時節には
 死ぬがよく候
 是はこれ
 災難をのがるる
 妙法にて候
 
 今起こっていることは、人間があれこれ思っても変わる訳ではない。むしろ、あれこれ思った分だけ苦しみが生まれる。人にとっての本当の災難は、その出来事(相手の世界)を自分の中でなんどきまでも問題にすること。 
 事実は必ず事実としてあり、最初から善し悪しがあるわけではない。人が動けば動いたように事実もまた留まっていない。
 相手の世界というものといつでも一緒になって、それでいて、ひとつも痕を残さないのが事実。