義衍老師語録提唱15~16

◆意が止む(1)

 本文 
 
 本当に妄想が止みますと、縁の如何を問題にしなくなる。相手の世界を問題にしなくなる。相手の世界と思っていたものが相手でなくなる。それだけ自分自身の真相が明らかになってくる。
 そうすると、只そのことがそのこととしてあるのみであって、それが私達、人といわれておるものの実体である。 
 人間の考え方がどうであろうと、否定しようが肯定しようが、そういう考えに全く関係なく事実がある。
 人とものとの関係において、いちいち、ものが現れ、現れては消え、消えては現れる。その様子が分かる。

 提唱

 今年も残すところ僅かとなりました。一年間お世話になりありがとうございました。
 コロナ、コロナの一年でした。最近はまた感染者が全国的増加し続けています。年末年始をどう過ごすのか、ひとり一人が自覚を持って向き合うことが必要です。
 しかしながら、感染の恐怖やいつ収束するのか分からないという不安。先が見えないということは本当に人を困惑させます。困惑は更なる不安を招きます。
 見えないものを相手にすると、人は勝手に自分
の中に事実とは違うものをつくりだします。そうしてつくりだされたものをまた相手にして、更なる妄想が増幅されます。
 先は見えなくとも、今生きているところのことは必ずある。今の事実は失われることはありません。たとえ風が吹こうが、雪が降ろうが、今ある事実は人を困惑させることがありません。困惑するのはいつだって人の考え方や捉え方のほうです。
 世の中がどうであろうと、世間がどう考えようと、今、一輪の花を前にするのであれば、そこが紛れもなく自身の生きているところ。善し悪しを言う前に、その事実に触れてみて下さい。そこから本当に必要なものが明らかになる筈です。

◆意が止む(2)

 本文 
 
 人間の従来の考え方を持って自分を守っておるということは、それだけ道から離れておることなのです。
 五感(眼、耳、鼻、舌、身)というものは正直なものですから、その縁を縁のままに受けるんです。ただそのまんまに受けられるようなところまでゆけば大丈夫です。
 ところが、私共はそこまで本当にいかんのです。縁に触れると、それにすぐ心がついて動いてゆく。そういう憂いがある。そういう点を大いに警戒しなくてはならない。
 人の為に何か言いたくてしょうがない、やりたくてしょうがないという、そういう気持ちが先に立ちますと、いきおい自分の修行はできなくなる。

 提唱

 境内の河津桜も葉桜へと移り、また山門の山茱萸が満開となり、これから本格的な春が訪れようとしています。
 季節は留まることなく移り変わっていきます。
 人の考え方は、あの時はこうだった、あの頃は良かったというように記憶と戯れ、またこれからどうなるのか知りたがり、未来への希望や不安に足下が疎かになります。
 私たちのこの身はいつも正直に、今あるものと触れあって生活をしています。その時のそのことだけです。
 ここが修行といわれるところの要点です。
 ところが、人というのはおかしなもので、それではつまらないと思う。人の考え方がそう思わせる。
 つまらないというのは相手にあることではなく、こちらにあるもの。
 満開の桜だけが人を満足させる訳ではありません。満開の桜だって、この身をそこに置かないとその素晴らしさは知り得ません。
 桜を見に行ったということに満足しているのであれば、それはやはり考え方の生活なのでしょう。
 これから桜の季節を迎えます。色や形、その実物の素晴らしさに出会うのはいつでも、この身が事実生活しているところです。