義衍老師語録提唱11~12

◆心頭を滅却すれば(1)

 本文
 
 「ドン」これが皆さんの命の根源です。これが分かるといいんです。
 何も知らんものが(人の誕生)、知らんなりに、知らん世界にゴロッと出てきたら、出てきたまんまに、いきなり環境と共に否応なしにひとつになって(同化して)動くように出来上がっておる。それが人の真相です。
 生まれながらに出来上がっている大道としての働きを、本当に我がものにするには、長い間苦心したとか、今初めて聞く人であろうが、「ドン」この音を聞くのに、時間も経験も老若も新旧も全く関係ない。一様にみなコロッとそうなる。そんな確実な道がある。

 提唱
 
 令和二年を迎えました。本年もよろしくお願い致します。
 元旦の朝、年末までの暖かさからすると少し冷えましたが、お正月らしい寒さが戻って来て何故か安心しました。年が改まって、多くのお詣リをいただきご挨拶をさせて頂きました。
 毎年、本堂には大きな壷に花が生けられます。臘梅、松、椿、千両などといった花材で生けられる花は見応えがあります。
 そんな花を見ていると、確かに向こう側にある花に違いないのですが、こちらで見ている私も向こう側の花も無くなって、だだ生けられている花の姿があることに気づきます。私と花は元々別々のものとしてあるものではないことが、私たちの真相です。
 向こうのものだ、環境だとか言って、こちらを中心に物事を測ればそうなりますが、そんなこと言っても、我が身はそこにひとつも線引きをすることなく、一緒になって生活しています。分け隔てをするのは人の見方や考え方。
 あちらのことだと言っても、そこには必ず私が親しく関わって、あちらの様子も何もかもちゃんと私のものとして戴いています。
 好き嫌いを言うのも、向こうのものとひとつになっている証なんです。

◆心頭を滅却すれば(2)

 本文
 
 それを仏道というのです。生まれながらの必然性としてのものと、後天的な修養に依って得られたものと、そのきわが出来るんです。
 そこに本当のものと、偽物といったことが伺われるところがある。
 坐禅をするということは、自分の考え方で一切細工をしないことです。細工をしようとする、それを一切止めることです。
 「ドン」机を叩くと、そういうことがいきなり在るということです。このもの(自己)が、そのようにコロッと、人の考え方を飛び越えてコロッとそうなる。いつでもそうです。「心頭を滅却すれば、火も亦涼し」というのもそうです。熱い時に熱いということです。誰が熱いと言わせておるか、人がいないんです。

 提唱
 
 日本でも新型コロナウイルスの感染がまだ広がっています。それに伴って様々なことが言われ、正しい情報と正しくない情報が流れ不安を招いています。心ない人のデマは不安を一層あおる結果となっています。 不安とは何処にあるのでしょう?現在で言えば新型コロナウイルスが不安の原因となるのでしょう。しかし、不安は人の内側で起こるもの。例えば注意を促す各局の報道を元に、ああではないか、こうではないかと、それぞれが勝手に想像をして必要以上の不安をつくり出しています。不安とはそうして人の中で増幅されていきます。
 一方、私たちの生活は必ず自分のこの身のあるところで行われています。そこのところは実に不安のない生活をしています。風に吹かれたら吹かれたように、冷たければ冷たいように、必ずそこに寄り添って、それ以外のことがないように過ごしています。
 最低限感染拡大に対して気を付けなければならないことはありますが、まずは個々が自分の生活をきちん見ていくことが必要です。
 「心頭を滅却すれば火も亦涼し」不安を相手にし始めればきりが無いですが、不安のないところに触れれば落ち着きます。「涼し」とは「親しい 」という意味です。