義衍老師語録提唱3~4

◆今という生活(1)
 
 本文
 
 見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらない言わないで下さい。
 私達はいかなる立場であれ、どの様な状態に置かれていても、今という生活の欠けている人は居りません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
 これを現成といいます。
 すでにあるんです。好き嫌い善悪をいう前に。 それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。
《次号へ続く》

 提唱
 
 新年を迎えました。もうすぐ母の一周忌です。一年なんてあっという間ですね。
 昨年も母をはじめ何人もの方をお送りしてきました。その中でいつも言えるのは、人の死というけれど、そのことは正に自身の今の生活のまっただ中のことなんです。一方では人が死んだという相手のことなんですが、一方ではその一部始終は皆、自分自身の生きている内容なんです。時も場所も状況もみんな親しく自身のこと。必ずこの身のあるところのことであり、この身のあるところの時間のことなんです。どのような状況であっても。
 いくつもあることのひとつ?世界の中のほんの一部のこと?人生の僅か一コマ?それは人の考え方。この身はそんなふうに生きていません。考え方に傾くと、いろんなことがあるように感じて落ち着かないですね。心がザワザワしてきます。自身の所在が解らなくなるから。
 時間だって場所だって今この身のあるところを除いては味わうことが出来ないものばかり。そこに静かに心を向けてみる。
 本物にはかなわないんです。心も体も。

◆今という生活(2)
 
 本文
 
 ここに公案といわれる逃げもかくれも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない、他人ごとでは済まされないあり方が公案なのです。
 「あなたならどうする」考えて考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方はどうしたのだろう。間違いなく考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。自分の見方を使わずに。それが非思量といわれるすごし方です。これがないと、坐禅は蝉のぬけがらになってしまいます。現成公案は、だれしもの抜きさしならない今が、私達が思っているようなものかどうか、もう一度自分自身の上で確かめることです。

 提唱
 
 3月、お彼岸の月を迎えました。
 先日、娘が仲良くしていた中学時代の友達の父親が事故で亡くなりました。娘からそのことを聞いた時、現実とはなんて無情なのかと大きな衝撃を受けました。何度も我が家に遊びに来たり、部活の帰り、同乗するその子をよく自宅まで送って行きました。その子の悲しみや辛さを思うと、何とも言い様のないやり切れない思いでした。
 でも、母が亡くなった時もそうでしたが、人はどんな状況の下でも、思いとは関係なく今ある事実に即しています。受け入れても受け入れなくても間違いなくあり、良くても悪くても絶え間なくそれはあります。そしてそのことは、この身(私)と隔てた向こう側にある人や物や出来事ということではなく、この身(私)もその中にあっていっしょになって生活しています。この身(私)とは切っても切れない、こっち側向こう側という区別出来ないとても親密な関係で成り立って居ます。
 「見える」「聞こえる」というこの身(私)と触れあうところの温もり。これを非思量といいます。