義衍老師語録提唱

◆意根を坐断(1)
 本文
 意の根というものがある。それがどうしても取れない。それは子供の時、知らんうちに思い込んで、その思い込みを育ててきたんじゃからどうしようもないんです。迷ったことを知らんのですから、それを取り除く方法がわかりようがない。それを釈尊が本当に徹見せられた。お茶を飲んだら茶の味がする。これが釈尊の到達された境涯です。
 救われている、成仏しているご自分の様子をごらんになって、人々を救う道はここにある、救われる道はこれ一つ、他に救いようがない。(次号へ)
 
 提唱
 人は自分というものをしっかり持っています。疑う余地もないほど。
でもその自分とは何処に在るのでしょう?この体を医学的にどれだけ刻んでみても、これが自分だという芯らしいものは出て来ません。
 知らないうちに思い込んで、その思い込んだ自分を育ててきた。可愛がることをしてきた。そして可愛がるのと同時に苦しみも生まれ、可愛がれば可愛がるほど苦しみも増していく。
 今度は、その苦しみから逃れたいと言って、また自分を可愛がることをして苦しむ。 
迷いの根を知らないから、どこまでも苦しみの連鎖は続いてきます。
 その苦しみの連鎖、迷いの根源を徹見せられたのがお釈迦様です。
 自分を可愛がるという人の考え方から離れ、ご自身の様子を静かにごらんになった時、自分という思い込みの自分であることを見極められて、既に救われている自身に出会われた。
 お茶を飲んだら、お茶の味がする。そんな当たり前のことと言うかも知れませんが、ここに自身が救われている真相がある。

◆意根を坐断(2)
 本文
 どんなに世界の人がジタンダ踏んでみてもどうしようもない。それはいつも云うように、理性に訴えて、そして理性をもって整理してみても、自分が整理したことまでみんな知っておる。それだ
からどうしようもない。見えないものを見たように作ってみせても、それまで自分が知っておる。 自分を自分でごまかせない。人間は基本的にそこまで正直であるのだが。そういうところに本当に人類は苦しんでいる。苦しみの根源はそこにある。
 それを根本から救う道が仏道である。自分自身に正直であれば必ず忘自己の時節はある。徹する。

 提唱
 閻魔大王のお話しはご存じでしょうか?亡くなって五七日目に閻魔大王の裁きを受けるというお話しです。 その裁きには閻魔帳が使われます。閻魔帳には生前の罪や善行まで全て書いてあります。その行いによって行き先が変わってきます。
苦しみの世界なのか、苦しみの無い世界なのか。
 裁きでは質問があり、問われたことに正直に答えないと舌を抜かれてしまいます。閻魔大王は嘘が分かります。それは大王が持っている鏡に全てが映し出され、正直に答えているかどうかが分かるからです。そして、この場においてまだ嘘という罪を犯すような者は、苦しみの世界へと送られてしまうというお話しです。
 実は閻魔大王とは自分自身のことなんです。自分には絶対に嘘がつけない。
 修行において大切なのは、考え方で整理して自分で自分をごまかさないこと。たとえ整理したって本音は違うのであれば、本当は解決していない。
 「気にしない」と言って「気にしている」自分に正直になって、本当に「気にならない 」ようになったら本当の解決です。苦しみの無い世界なんです。
◆今という生活(1)
 本文
 見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらない言わないで下さい。
 私達はいかなる立場であれ、どの様な状態に置かれていても、今という生活の欠けている人は居りません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
 これを現成といいます。
 すでにあるんです。好き嫌い善悪をいう前に。 それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。
《次号へ続く》

 提唱
 新年を迎えました。もうすぐ母の一周忌です。一年なんてあっという間ですね。
 昨年も母をはじめ何人もの方をお送りしてきました。その中でいつも言えるのは、人の死というけれど、そのことは正に自身の今の生活のまっただ中のことなんです。一方では人が死んだという相手のことなんですが、一方ではその一部始終は皆、自分自身の生きている内容なんです。時も場所も状況もみんな親しく自身のこと。必ずこの身のあるところのことであり、この身のあるところの時間のことなんです。どのような状況であっても。
 いくつもあることのひとつ?世界の中のほんの一部のこと?人生の僅か一コマ?それは人の考え方。この身はそんなふうに生きていません。考え方に傾くと、いろんなことがあるように感じて落ち着かないですね。心がザワザワしてきます。自身の所在が解らなくなるから。
 時間だって場所だって今この身のあるところを除いては味わうことが出来ないものばかり。そこに静かに心を向けてみる。
 本物にはかなわないんです。心も体も。

◆今という生活(2)
 本文
 ここに公案といわれる逃げもかくれも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない、他人ごとでは済まされないあり方が公案なのです。
 「あなたならどうする」考えて考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方はどうしたのだろう。間違いなく考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。自分の見方を使わずに。それが非思量といわれるすごし方です。これがないと、坐禅は蝉のぬけがらになってしまいます。現成公案は、だれしもの抜きさしならない今が、私達が思っているようなものかどうか、もう一度自分自身の上で確かめることです。

 提唱
 3月、お彼岸の月を迎えました。
 先日、娘が仲良くしていた中学時代の友達の父親が事故で亡くなりました。娘からそのことを聞いた時、現実とはなんて無情なのかと大きな衝撃を受けました。何度も我が家に遊びに来たり、部活の帰り、同乗するその子をよく自宅まで送って行きました。その子の悲しみや辛さを思うと、何とも言い様のないやり切れない思いでした。
 でも、母が亡くなった時もそうでしたが、人はどんな状況の下でも、思いとは関係なく今ある事実に即しています。受け入れても受け入れなくても間違いなくあり、良くても悪くても絶え間なくそれはあります。そしてそのことは、この身(私)と隔てた向こう側にある人や物や出来事ということではなく、この身(私)もその中にあっていっしょになって生活しています。この身(私)とは切っても切れない、こっち側向こう側という区別出来ないとても親密な関係で成り立って居ます。
 「見える」「聞こえる」というこの身(私)と触れあうところの温もり。これを非思量といいます。
 
◆更に向かう処なし(1)
 本文
 坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。 
それをやりますと、次第にあっても気にかからぬようになる。
 気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。
 まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。
 そういう縁を結ぶということがある。

 提唱
 今週は梅雨らしい天候でした。
 先日、ラジオでスメルハラスメントのことを言っていました。今やいろんなことに対して敏感になっている人が多くなっているようです。自分にとって気に入らない、不快と感じたものに対して、ハラスメント(いじめ、嫌がらせ)だと訴えることは、一体どこまでいくのでしょうか。
 考えてみれば、世の中のこと(人や物事)は自分が気に入るものの方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
 外側にあるものに対して善し悪しを言い始めたら本当にきりがない。善し悪しを言えば言うほど心は穏やかさを欠いていく。そうして対立するもの、不平や不満は自分の中に増幅されていく。そういうことが分かるから、まず事実を知るという必要がある。この身とそして周りにある事柄の正体を知る必要がある。
 だから坐禅では、今まで自分が扱ってきた善し悪しという物さしを置いて、ただそのままに過ごしてみる。そうすると、自分が今まで認識していた事柄とは違う、その正体に気がつく時節が必ずある。

◆更に向かう処なし(2)
 本文
 その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、悟る前の様子と悟って後の様子が、いっぺんにに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 祖師方は皆、そういうふうにされて来た。
 何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。目的がなければ生きがいがないのか、嫌気や、いい加減にしかしないのか、不足があるのか。
 更に自己を立てて向かう処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。赤子は堂々とこれをやってのけている。

 提唱
 坐禅をして今の自分を見直したり、変えていこうとする、そういう目的で来られる方がほとんどです。今の自分に満足していないからそういうふうに思うのでしょう。しかし、坐禅は今のその満足していないと思っている自分を丁寧に見てみることをするのです。
 なぜそういうことをするのかというと、満足していないと勝手に思っている今の自分の生活かも知れませんが、赤いものに向かえばその赤い色がその通り見えて、音声に触れれば大きさや方向、何の音なのかさえその通りに分かる。これはどういうことなのか。私たちは満足出来ている様子もちゃんといただいているということです。
 人は何の為に生まれて来たのでしょう。目的を持って生まれて来たという自覚のある人は一人もいません。それは後で人が付けたり思ったりしたこと。元々何も持たずに誰しもが生まれて来ました。ただ、今触れる縁のみを等しく戴いて。
 生まれて来る前の様子、人の根源は、人の欲求としての満不満を越えて、満足のいく出来映えがある。そのことに、他ならぬ自分が自分の内容に気付くこと。